2017-09

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ヲカシの現状について

先日誕生日を迎え、人生の三分の一くらいを終えたのを機に「をかし」なるものについてつくづくと考えてみる。

 ***

私は「をかし」というのがどういうことなのかよく知らない。

その言葉の指すところについて私はかなり長い間、敢然とテキトーを貫いてきた。人間を長くやっていると、どういうわけか見た瞬間にぞぞと鳥肌が立つもの、どういうわけか目を奪われるというものが世の中に時折ある。これがもしや例の古文の授業でやったヲカシとかいうあれか、とある時合点して、そのように呼んできた。

「をかし」の懐は思いのほか深かった。「台風の夜に暴風圏の真ッ只中でセミの羽化に一部始終つきあわされる」などというドラマなヲカシもあれば、「おんなのわるぐちをさんざんに叩いて酒をかっくらってねどこにばたりと寝転んで空を見上げたら飴色の半月が浮かんでいた」などという実にほのぼのとしたヲカシもあった。それらを総てイトヲカシと纏めてぴいぴい喜んで来、それなりに面白く過ごして来たのだが、あるときから少しうまく行かなくなった。

テキトーさにはテキトーゆえの苦しみがつきまとう。ルールのない遊びはむずかしいものだ。なにやら目をつむってぞうの足を撫で、むつかしい顔をして「岩だな」とつぶやいて目をつむったままはしゃいで喜んでいる、とでもいうような、まるで見当の外れたことをして驕っているだけなのではないか、要するに自分はばかものなのではないかという不安にふと襲われるようになった。

「をかし」の本来意味するところのものをきちんと勉強してみるか、と、先日思い立った。

そうと決まれば第一人者、「をかし」といえば清少納言大先生である。昔学校の古文の授業で読んだきりの『枕草子』を一大決心をして購入して、とっぷりと読んだ。「春はあけぼのがいえー」という有名な箇所はもちろんふかぶかと心して読み、「あの月光は庶民どもには勿体無い」という無茶な呟きに驚いたりしつつ、それなりに面白く読んだのだが、わかったことがひとつある。

「をかし」というものがさっぱりわからない。

『枕草子』にはなるほどと膝を打つこともあればなぜと噛み付きたくなることも等しくあり、個々の「をかし」の例から骨子となるところのものを掴むことが出来ない。勿論、あるものが「をかし」であり、またあるものがそうでないとされる、その判例をとりあえず飲み込んでしまうことは出来るが、しかし先生の時代からもう千年経った。千年前に無かったものについては現代の我々が判定せねばならぬ。骨子がわからぬままでは進まない。

うんうん唸ったがわからないものはわからないので散歩に出てみた。

近くの遊歩道にさらさらと葉を揺らす風流なモミジの並木があり、ベランダから見下ろすとそろそろいい色になっていたのでふらりと眺めに行ったのだった。道に沿って並んだ十本・二十本、案の定、枝の先から樹の付け根までモミジは見事に真ッ赤に染まっていて、それはもう風情だった。

しかし同時にそれは終わっていた。

自分の中でのヲカシが少し色を変えているのにそこで気がついた。

この鮮やかに染まりきったモミジはこの先もうけっして魅力を増すことがない。

葉先が枯れてくるくると丸まったり、虫に食われていびつに欠けたり、あめかぜに吹き散らされたり、菌に侵されてぐずぐずと腐ったり、ここからはだめになっていくばかりである。今この瞬間に太陽に彩られた只今一瞬の美は、激しく眼を射すけれども、終わっているのだった。

完熟した赤いモミジはまさしく揺ぎ無い私の「ヲカシ」だった筈だが、どうしたわけかちっともときめかないのだった。けちのつけようのない立派な風情を前にして不服を思う自分が、何やら恥知らずのばかもののようにも思われ、地球に申し訳なく、誤魔化すようにくるくる首をめぐらせて辺りを見回すと、真ッ赤な葉の海の中にぼんやり、そこだけ違う色がちらと見えた。

近寄ってみると、枝の先、葉の先だけが仄かに色づいて、全体にまだ青い樹である。

それは調和を乱すもの、全体の足並みに揃わぬもの、視界を邪魔するものだった。秋が来ているというのに染まりきらない無粋な葉、「わろし」と切って捨てて良い筈のものだと見た瞬間は思った。しかしその後に心中に起こってきた感情はまるでそうでないのだ。この邪魔者を目にしてやっとこの空間がヲカシだと感じられるようになった。

ある一瞬の切り取られたうつくしさを「ヲカシ」とするのはかめらに毒された思想だ。写真は風流空間の時間軸での切片に過ぎない。桜を愛するひとは枝ばかりの冬の桜を知っている。花を好むひとは種や葉や蕾の息づくさまを飽きるほど眺め花を待っている。

移ろいゆく事物の移ろいゆくさまこそが時に人の心を打つのではないか。
それこそがテキトーに呼んできた私の「ヲカシ」なるものの正体ではあるまいか。

この先、赤い木立の中に一点照り映える未熟な青い枝は、これからだんだんに色が移るだろう。きっとある瞬間に至るまでは本当に言葉に尽くせないような見事な光景だろう。しかし青い樹が染まりきるより早く、先に染まった赤い樹からどんどん老いさらばえて行くに違いない。この風流空間はどんどんだめになっていく。

これがひょっとして「をかし」の切り口ではあるまいか。

そしてだめなモミジの中に青モミジはいよいよ見事に起立する。いやもう未熟の青ではない、完熟の、真ッ赤なモミジが、だめな木立の中に燦燦と輝く。なんという無常な光景だろうか。そしてこれはなんという欠損美だろう。清少納言先生が見たらなんというかわからないが、ここにはまた違ううつくしさが潜んでいると思った。

ざあと風が吹いて葉の海が揺らぐ。ぼんやりしている間に陽もよほど傾いていた。
濁った赤い夕焼けの中ではモミジはそれほどいえーではなかった。
その事実がヲカシである。

 ***

世紀の発見から一月後、もうモミジのことなどまったく忘れているじぶんがいた。

つくづくと思うが、移り気な私は四季めまぐるしく移ろう日本の国にまことに似つかわしい国民だ。一瞬激しく心を奪われて、その一瞬後にまた別のものに夢中になる。かつてはこの性質を厭わしくも思ったが、今はそれでいいと思う。

風流人を名乗る資質はまずあると自負している。
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