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王を迎えに
苛立ち、きつく締め過ぎたのが裏目に出たか。紐におかしな癖がついてしまった。三度目の蝶はますます無様だ。乱れた結び目に指を突き込み、ぞんざいに解く。
支度はこの靴紐を結んでしまえばすべて仕舞だというのに蝶結びだけがどうしても出来ない。なんとしても結ばねばならぬ。蝶が仕上がり次第ガチャピンを迎えに出る。
このたびの五輪報道をつぶさに見聞きするうち、私は悟った。あの人にお出で願わねば五輪に未来はない。ガチャピンが五輪を救うのである。
何、いずれフジの近くに住まっているに決まっている。スタジオの辺りをうろうろしていれば、あの目を刺すライムグリーンだ、すぐに発見出来るだろう。礼を尽くしてご招待申し上げれば快諾してくださるに違いない。
謁見する際に失礼があってはならない。ふさわしい礼服一式を調えた。上下を作法通りに着た。タイピンもつけた。カフスもつけた。夏の終わりに居残った入道雲が映り込むくらい靴も磨いた。だが最後の最後で、生来苦手としてきた蝶結びに、またしても苦しめられる。結ばねば、これを結ばねば危うい。五輪が危うい。五輪に、あの人を五輪に。王を五輪へ。五輪へ。五輪へ。「五輪へ」念じつつ一心に靴紐を結ぶ。
***
一般に、ガチャピンには不可能なことは無いのではないか、と目されている。誰も「そうだ」と断定できないのは奥ゆかしい彼(ガチャピン)の精神がその能力を公然とひけらかすのを潔しとしないためだが、慎ましく公開されているテレビ映像だけを見ても、スキー、スノーボード、スキューバ及びスカイダイビング、柔道、ボクシング、料理、宇宙飛行、と彼は驚く程の多岐に渡って勇躍たる万能ぶりを発揮している。
巨軀をものともしないあの才能がこれからの五輪にどうしても必要だ。
ガチャピンは国家に所属しない。(現在は気が向いてフジ付近に住まっていると聞くが)日本の代表として出るわけではない。国家を背負わないので団体戦には出ない。
彼が挑むのはすべての個人種目である。
百メートル決勝の最終レーンに彼が立つ瞬間を、思い描いてみようか。
聴衆、最初は皆手放しに笑うだろう。次に言葉を失う、たっぷりと口を開け放して。それからたぶん怒り始め、震え、天を仰ぎ、嘆き、喚き、それでも、最後の最後にはきっとまた笑う。最初とは違う毒気の抜けたさわやかな笑いだ。誰しもが万雷の拍手を送りながら王の悠然たるウィニング・ランを見守る筈だ。
ガチャピンはあらゆる個人種目の、それも決勝にのみ登場する。迎え撃つのは、人類から選抜された歴戦の勇士どもである。陸上競技であろうが、それがたとえ水泳であろうが、それがあまつさえ格闘技であろうとも、あのライムグリーンは少しも苦としないのだ。まるまるとした体躯に精気をみなぎらせ、彼は威風堂々、泳ぎ、走り、勇士どもを打ち伏せる。
世界のどこにも属さない無敵のチャンピオン、偉大なる五輪の王。
そうした一なる共通の敵を前にして、初めて世界は一丸となる。
その時、我々が人類が五輪に賭けるのは、人類としての名誉である。金メダルが意味するものは、人類が偉大なる彼から勝ち取った、種としての勲章へと変わる。国家のメンツ、民族のメンツ、そんなものは最早無用の長物だ。メダルの個数を巡って国家が諍いを起こすことはもうない。しくじった競技者が帰国後罵倒され続けることもない。祭典において神聖な競技者はいささかも損なわれずに済む。
長らく途絶えていた神聖なるオリンピックがそうしてようやく始まる。
ガチャピンが参加した年だ。その年、オリンピックはやっと、真の意味で平和の祭典となるのだ。
***
息を吹き返した残暑が半開きのドアから玄関に忍び込んでくる。しゃがみこむ手元に眉頭から汗が落ちる。ゆびさきに落ちる。こめかみに打つ脈がまた速くなる。礼服の下の肌着が吸い付く。結び目はいっこうに出来上がらない。どこがどこを通っているのだか、ええ、もうやぶれかぶれの見切り発車だ、えい、と左右に引き絞った紐はうつくしい真一文字を描いた。きりりとした固結びだ。水平線のように遠いその直線を見詰め倒れ込みながら、最後に、「ムックは、まあ、審判でいいか」とゆめうつつにおもひぬ。
支度はこの靴紐を結んでしまえばすべて仕舞だというのに蝶結びだけがどうしても出来ない。なんとしても結ばねばならぬ。蝶が仕上がり次第ガチャピンを迎えに出る。
このたびの五輪報道をつぶさに見聞きするうち、私は悟った。あの人にお出で願わねば五輪に未来はない。ガチャピンが五輪を救うのである。
何、いずれフジの近くに住まっているに決まっている。スタジオの辺りをうろうろしていれば、あの目を刺すライムグリーンだ、すぐに発見出来るだろう。礼を尽くしてご招待申し上げれば快諾してくださるに違いない。
謁見する際に失礼があってはならない。ふさわしい礼服一式を調えた。上下を作法通りに着た。タイピンもつけた。カフスもつけた。夏の終わりに居残った入道雲が映り込むくらい靴も磨いた。だが最後の最後で、生来苦手としてきた蝶結びに、またしても苦しめられる。結ばねば、これを結ばねば危うい。五輪が危うい。五輪に、あの人を五輪に。王を五輪へ。五輪へ。五輪へ。「五輪へ」念じつつ一心に靴紐を結ぶ。
***
一般に、ガチャピンには不可能なことは無いのではないか、と目されている。誰も「そうだ」と断定できないのは奥ゆかしい彼(ガチャピン)の精神がその能力を公然とひけらかすのを潔しとしないためだが、慎ましく公開されているテレビ映像だけを見ても、スキー、スノーボード、スキューバ及びスカイダイビング、柔道、ボクシング、料理、宇宙飛行、と彼は驚く程の多岐に渡って勇躍たる万能ぶりを発揮している。
巨軀をものともしないあの才能がこれからの五輪にどうしても必要だ。
ガチャピンは国家に所属しない。(現在は気が向いてフジ付近に住まっていると聞くが)日本の代表として出るわけではない。国家を背負わないので団体戦には出ない。
彼が挑むのはすべての個人種目である。
百メートル決勝の最終レーンに彼が立つ瞬間を、思い描いてみようか。
聴衆、最初は皆手放しに笑うだろう。次に言葉を失う、たっぷりと口を開け放して。それからたぶん怒り始め、震え、天を仰ぎ、嘆き、喚き、それでも、最後の最後にはきっとまた笑う。最初とは違う毒気の抜けたさわやかな笑いだ。誰しもが万雷の拍手を送りながら王の悠然たるウィニング・ランを見守る筈だ。
ガチャピンはあらゆる個人種目の、それも決勝にのみ登場する。迎え撃つのは、人類から選抜された歴戦の勇士どもである。陸上競技であろうが、それがたとえ水泳であろうが、それがあまつさえ格闘技であろうとも、あのライムグリーンは少しも苦としないのだ。まるまるとした体躯に精気をみなぎらせ、彼は威風堂々、泳ぎ、走り、勇士どもを打ち伏せる。
世界のどこにも属さない無敵のチャンピオン、偉大なる五輪の王。
そうした一なる共通の敵を前にして、初めて世界は一丸となる。
その時、我々が人類が五輪に賭けるのは、人類としての名誉である。金メダルが意味するものは、人類が偉大なる彼から勝ち取った、種としての勲章へと変わる。国家のメンツ、民族のメンツ、そんなものは最早無用の長物だ。メダルの個数を巡って国家が諍いを起こすことはもうない。しくじった競技者が帰国後罵倒され続けることもない。祭典において神聖な競技者はいささかも損なわれずに済む。
長らく途絶えていた神聖なるオリンピックがそうしてようやく始まる。
ガチャピンが参加した年だ。その年、オリンピックはやっと、真の意味で平和の祭典となるのだ。
***
息を吹き返した残暑が半開きのドアから玄関に忍び込んでくる。しゃがみこむ手元に眉頭から汗が落ちる。ゆびさきに落ちる。こめかみに打つ脈がまた速くなる。礼服の下の肌着が吸い付く。結び目はいっこうに出来上がらない。どこがどこを通っているのだか、ええ、もうやぶれかぶれの見切り発車だ、えい、と左右に引き絞った紐はうつくしい真一文字を描いた。きりりとした固結びだ。水平線のように遠いその直線を見詰め倒れ込みながら、最後に、「ムックは、まあ、審判でいいか」とゆめうつつにおもひぬ。
秋風のフォルテシモ(一)
巨きな生き物を見つけたら、おおきな名前をつけたい。
それは人情というものだろう。
けれどことが恐竜の命名についてのことであれば、必ずしもうまい手段とは言えないのではないか。
例えば、ぶったまげるほど巨大な恐竜化石が見つかったとする。
研究者が鼻歌交じりにおっきな名前をつけるとする。
年月が巡り、さらにおったまげるようなとても巨大な化石が出る。
前のものとは別種らしいから、新たに名前をつけねばならない。
研究者は頭をひねって、とびきりおおきな名前をそいつに与える。
さらに経って、もうこれ以上はあるまいと思われるような、ばかげたサイズの恐竜の骨格が出土する。
別種である。
研究者は脳天をぶんなぐりながら名前をひねり出す。
数年後、さらに巨きな化石が出土する。
別種である。
研究者は脳天をミキサーにぶちこんで、古今無双、空前絶後のスケールの名前を考える。
次が出たら、もう終わり。
研究者は脅えて暮らしている…。
そんな風な冗談をどこかで読んだことがある。
ふと思い出したのは、「フォルテシモ」についてくよくよと考えていた時のことだった。
フォルテシモとは、音楽の譜面に現れる、「ff」というあの記号だ。
「f(フォルテ)」が<強く>という演奏者への指示であり、フォルテ族はこれを基本形として順次「ff(フォルテシモ)」「fff(フォルテッシシモ)」へと発展する。
明快である。
演奏記号は明快だ。「より強いもの」を表すのにいちいち「ギガント」だの「メガトン」だの新たな単語を発明するのに比べて、遙かに簡便でシステマチックな命名体系であると言える。直感的に捉えやすい、これは優れた命名法ではないだろうか。
だが恐竜研究者を襲った悲劇の足音はここにも幽(かす)かに聞こえ始めている。
「ffffffffffffffff」
たとえば、これを、どう表現すべきだろうか。また、なんと発音すべきなのか。
それは人情というものだろう。
けれどことが恐竜の命名についてのことであれば、必ずしもうまい手段とは言えないのではないか。
例えば、ぶったまげるほど巨大な恐竜化石が見つかったとする。
研究者が鼻歌交じりにおっきな名前をつけるとする。
年月が巡り、さらにおったまげるようなとても巨大な化石が出る。
前のものとは別種らしいから、新たに名前をつけねばならない。
研究者は頭をひねって、とびきりおおきな名前をそいつに与える。
さらに経って、もうこれ以上はあるまいと思われるような、ばかげたサイズの恐竜の骨格が出土する。
別種である。
研究者は脳天をぶんなぐりながら名前をひねり出す。
数年後、さらに巨きな化石が出土する。
別種である。
研究者は脳天をミキサーにぶちこんで、古今無双、空前絶後のスケールの名前を考える。
次が出たら、もう終わり。
研究者は脅えて暮らしている…。
そんな風な冗談をどこかで読んだことがある。
ふと思い出したのは、「フォルテシモ」についてくよくよと考えていた時のことだった。
フォルテシモとは、音楽の譜面に現れる、「ff」というあの記号だ。
「f(フォルテ)」が<強く>という演奏者への指示であり、フォルテ族はこれを基本形として順次「ff(フォルテシモ)」「fff(フォルテッシシモ)」へと発展する。
明快である。
演奏記号は明快だ。「より強いもの」を表すのにいちいち「ギガント」だの「メガトン」だの新たな単語を発明するのに比べて、遙かに簡便でシステマチックな命名体系であると言える。直感的に捉えやすい、これは優れた命名法ではないだろうか。
だが恐竜研究者を襲った悲劇の足音はここにも幽(かす)かに聞こえ始めている。
「ffffffffffffffff」
たとえば、これを、どう表現すべきだろうか。また、なんと発音すべきなのか。
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